トロッコ問題を考えるたびに、いつも同じところで立ち止まります。
それは「自分が他人の生死に関わる決定をしてよいのか」という点です。
仮に多くの人を救えるとしても、
もし救えない一人が自分の家族だった場合、私は家族を選ぶと思います。
そう考えると、私はすでに命を単純な数だけで比較していないのだと感じます。
二択を迫られることへの違和感
トロッコ問題では、人の属性や人格、関係性が意図的に排除されています。
善人か悪人か、家族がいるかどうか、どのような人生を歩んできたか。
そうした属人的な要素が考慮されず、
「何人か」「どちらが多いか」という一点に集約されていきます。
この構造には、どこか割り切れないものを感じます。
功利主義的な判断を、半ば前提として求められているように思えるからです。
「何もしない」という選択について
「何もしない」という選択は、
実際には選択していないわけではないと考えています。
何もしないことを選ぶことで、結果として五人を選ぶことになります。
レバーを引いた場合も、引かなかった場合も、
結果の責任は自分にのしかかります。
違いがあるとすれば、それは自己認識だと思います。
「自分は神ではないから決定権を放棄する」という考え方も、
一つの自己決定です。
行動と結果は確定的であっても、
それをどう引き受けるかは自分で選べるのだと感じます。
何が一番重いのか
この問題で一番重く感じるのは、死そのものではありません。
死は生物として避けられない終着点であり、頭では理解できます。
それよりも重いのは、
自分が間接的にでも誰かの人生を奪い、
その人の「その後」を背負うことです。
救えなかった一人の家族が悲しむことを想像すると、
私は強い後悔を抱くと思います。
正解を決めたくない理由
もし誰かに「正解はこれだ」と示されたとしても、
私はそのまま受け取ることはできないと思います。
トロッコ問題は、特定の思想を選別するための問いではなく、
さまざまな状況を想像しながら、
自分の価値観や判断の基準を見つめ直すためのものだと感じています。
誰かの結論は、その人自身の帰結であり、
必ずしも全員に当てはまるものではありません。
今の私の立ち位置
もし数以外の情報がなく、
瞬間的な判断を迫られた状況であれば、
私は多数を生かす選択をすると思います。
理由は、悲しむ家族が減るからです。
レバーを引くことが本来は神にしか許されていない行為だとしても、
その罪を引き受ける覚悟を持つことを選びます。
これは正しいと断言できるものではありませんが、
今の私らしい判断だとは言えます。
雑記としての着地
人は数で比較され、評価されがちです。
しかし当たり前のこととして、
一人ひとり性格も役割も異なります。
だからこそ、属人的なものに意識を向けていたいと思います。
SNSやメールの向こう側にも、
顔の見えない一人の人間がいます。
そのことを忘れずに判断していきたいです。
